選択できるという幸せ
選ぶことができるのは、とても幸せなことですね。
でもその幸せを忘れて、あっちはイヤ、でもこっちもココがね、とか。
贅沢すぎる。
どうして忘れてしまうのだろう。
その道しかなくて、ほかの道を考えるということさえ、できない状況だってあるのに。
きっと、その場合の方が多いのに。
選べる、という贅沢な状況に、環境に、感謝しなくては。
心から。
と、しみじみ感じた今日でした。
RUN
某マラソン大会、走ってきました。
活気があって、楽しかった。
走っているときは自分との戦いで、ふだん自分に甘々なわたしには、良い訓練になっていると思います。
走っているときは苦しいけれど、もうものすごく苦しいから、日常のささいなわだかまりとか、悩みとか、そういうことがどうでもよくなる。
ちっさいこと考えてる場合じゃない、と思える。
だから、運動なんてほとんどやってこなかったけれど、走る、ということを始めてみてよかったと思います。
タイムはすごく遅いけれど、それはまぁ良し、ですよね。
わたしにとって走るって、他の誰かに負けない、とかじゃなくて、自分に負けないっていうことだから、それに惹かれてるのだと思います。
でもそう考えると、走るって、孤独な場所にいるということなのかな、と感じました。
わたしの創作への思いは、恋に似ている
ある曲を聴いていて、それを感じました。
これって恋愛の曲なのだろうか。それとも、このアーティストの方にとっての音楽への思い、なのだろうか。
聴いても、聴いても、どちらかわからなくて。
「あなたがいるから、心が乱される。だからいなくなってしまえばいい。
そうしたら楽になれる。悔しさに泣くこともない。
でも、あなたがいなくちゃ、喜びも、思い切り叫ぶこともない。
何もない。
それでいいなら、そうして、つまらない毎日を送ればいい。
きっと良かったんだろう、僕らはめぐり会えて」
略すとこのような歌詞です。
おそらく恋愛の曲ですよね。
でも、わたしには、なんだか創作への思いに聞こえて。
いま行き詰っているからかもしれません。
そうか、この気持ちって恋に似てるんだなってハッとさせられました。
苦しいばかりなのに、やめることができない。
手放してしまったら、味のない毎日になる。
きっとめぐり会えてよかったんだよ。
うん、やめられないなら、けっきょく進むしかないってことですよね。
ちょっと元気になれました。
ぜんぶ無駄かもしれない
わいてくる気持ちをごまかしながら、進むしかない。
一歩でも。
たまに、そういう気持ちにおそわれるときがあります。
ある一定の周期で。
そういうときわたしは、潔くスーッと目を背けるようにしています。
また向き合えるのを待つ。
仕事だとそうはいかないのでツライですが、趣味の創作はそれができるからいいのかもしれません。
なつかしさ
ずーっと昔に買ったビー玉。
大好きな逆光で撮影。
しばらく忙しくしていて、やっと落ち着いたところ。
ホッとしすぎて、部屋のお掃除スルー状態でした。
今日、やっと片付けにとりかかったら、発見しました。
封もあけてなかったので、あちゃちゃーと思い、撮影しました。
こちらはサイド光で撮影。
ビー玉、好きです。
懐かしくて、透明な空気感のなかの思い出。という感じがします。
小さい頃は、サイダーにはいっていたビー玉が、すごくきれいに感じました。
そういう気持ちって、もういい年になっても、忘れられないものですね。
出来事は忘れていくのに、雰囲気や匂いはちゃんと覚えている。
人間の記憶って不思議です。
気まずいとき
あ、ピントがあってないかも。
カフェで料理の写真を撮るとき、気まずさを感じます。
わたしはあまり飲食店で料理の写真を撮らないようにしているけど、座った席の光の向きとか加減がベストだと思ったときは、ついつい撮ってしまいます。
でも、たとえ店員さんに撮影の許可をもらっていても、気まずいです。
一緒にいる友人にも申し訳なくて、「ごめん、ほんとにごめん。ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけ」と思いつつ、ササッと撮ります。
ほんとはちゃんとカメラのファインダーをのぞいて、立ち上がって、本気で撮りたいけど、なかなかできないのがつらいところです。
スマホで、しかも座ったままが精一杯。
でもやっぱり、美しくて、おいしそうだと撮りたくなっちゃいますよね。
そして、おいしいものを食べると気持ちが満たされます。
でも、この贅沢を、ふと後ろめたく思ったりもして、しんみりします。
しょんぼりするような世の情勢を知ったあととか、特に。
自分はなんて贅沢な環境にいるんだろう、大した人間でもないのに。
だから、おいしい、幸せ!と思ったあとは、感謝する。
それはちゃんと忘れずにいたいです。